大門をくぐってすぐの角(だったと思う)を右に曲がると、島原で唯一現在も営業中の置屋&揚屋「輪違屋」さんがあります。
残念ながら非公開ですので、外からの写真だけですが、こちらも直線の組合せがうつくし〜
竹組みも美しい・・・
瓦の高島屋マーク(笑)はなんでしょう?ご存知の方、教えてくださいませ。
輪違いの紋が。後ろの直線にこのランプの笠と紋の曲線が映えますね〜
輪違屋は元禄元年(1688)創業で320年近い歴史があります。現在の建物は安政4年(1857)に再建されたもので、京都市登録有形文化財です。
神戸市立美術館での「江戸の誘惑展」のオープニング・セレモニーの際、太夫道中を披露したのは、こちらの如月太夫さんでした。以前もご紹介したストリートナビさんのセレモニーの写真、まだサイト上に残ってました。
コチラ
太夫は芸妓の最高位であり、往時は、正五位の官位が与えられ、帝に謁見が許される地位でした。吉原で有名な花魁と島原の太夫はよく混同されるそうで、この後行く角屋さんのサイトでも説明されています。太夫さんは花魁とは違い、娼妓ではなく、舞や音曲など諸芸に通じ高い教養を身につけた芸妓であったということです。
輪違屋の現役太夫「司太夫」さんが、「そうだ、京都行こう」のサイトの
「京都物語」のページで、インタビューに答えてわかりやすく嶋原や太夫の歴史について説明されています。興味のある方は是非どうぞ。
司太夫さんご自身のサイトにも説明があります。
さて、さらに西へ。
左の塀は角屋さんの板塀ですが、まだ予約の時間までに間があるので、もう少し散策を続けます。この道を進むと、つきあたりに
東鴻臚館址の碑が角にひっそりと建っています。
鴻臚館は今でいうなら迎賓館かな。東鴻臚館は、平安時代、渤海国の使節をもてなす場でした。
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。
蕪村の句が書かれています。
白梅や 墨芳しき 鴻臚館
逸翁美術館で五老醉帰図を見て以来、食わず嫌いがすっかり治った(笑)蕪村の句です。白梅が植わっていたのでしょうか。
説明板はまだ新しく、平成13年に整備されたもののようです。
輪違屋は、2004年が新撰組の年(大河ドラマで)だったので、「京の夏の旅」拝観場所に入っていて中まで見せてもらえました。2階に太夫さんのお部屋とか大きな傘の襖絵とかあって興味深かったですよ。
撮影禁止だったのかどうか忘れちゃったのですが、残念ながら中の写真が残っていません。
撮影禁止だったのかどうか忘れちゃったのですが、残念ながら中の写真が残っていません。